5月10日 その2086『逢坂誠二の徒然日記』

掲載日:2013.05.10



函館は多少雲が多めの朝を迎えたが、

天気が悪いという感じではない。



朝の気温は8度程度、

日中は14、5度位になる見込みだ。



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昨日の函館は、

春が来たことをやっと実感できる天候になった。



遅れていた桜もやっと開花し、

五稜郭公園などでは、

桜を楽しむ人の数も多かった。



この週末も多くの皆さんで賑わうものと思う。







1)自民党の憲法改正草案

昨日の日記で、

内田樹先生の国民国家が崩壊しつつあるという

朝日新聞への寄稿を紹介した。



今日も内田先生のHPから、

自民党の憲法改正草案論考を、

抜粋して紹介する。



HPに全文が載っているので、

できればそちらを読んで頂きたい。



http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_0746.php





== 以下、引用抜粋 ==



改憲案の「新しさ」





自民党の改憲草案については、

さまざまな批判がすでになされている。





この改憲案に伏流している

「新しいものの見方」についてだけ考えてみたいと思う。





私たちが立ち合っている変動は、

グローバル資本主義という「新しい」経済システムと

国民国家という「古い」政治システムが利益相反をきたし、

国民国家の統治システムそのものが

グローバル資本主義の補完装置に

頽落(らいらく)しつつあるプロセスのことである。





「よりグローバル資本主義に親和的な政治勢力」が

財界、官僚、マスメディアに好感され、

政治的実力を増大させている。





(自民党の改憲草案には)

国民国家解体のシナリオが書き込まれている。





株式会社の平均寿命は日本で7年、アメリカで5年。





企業が今から10年後にまだ存在しているかどうか、

確かな見通しを語れる人はいない。





けれども、そんなことは企業経営者や株主にとっては

「どうでもいいこと」である。





グローバル資本主義は「寿命が5年の生物」として

ことの適否を判定する。





国民国家は「寿命100年以上の生物」を基準にして

判定する。それだけの違いである。





寿命を異にするだけではない。

企業と国家のふるまいは、

機動性の違いとして端的に現れる。





グローバル企業はボーダーレスな活動体であり、

自己利益を最大化するチャンスを求めて、

いつでも、どこへでも移動する。





国民国家は宿命的に土地に縛り付けられ、

国民を背負い込んでいる。





国家制度は

「その場所から移動することができないもの」たちを

デフォルトとして、

彼らを養い、支え、護るために設計されている。





ボーダーレスに移動を繰り返す機動性の高い個体にとって、

国境を越えるごとに度量衡が言語が変わり、通貨が変わり、

度量衡が変わり、法律が変わる国民国家の存在は

きわめて不快なバリアーでしかない。





できることなら、国境を廃し、言語を統一し、度量衡を統一し、

通貨を統合し、法律を統一し、

全世界を商品と資本と人と情報が

超高速で行き交うフラットな市場に変えたい。





彼らはつよくそう望んでいる。





戦争が始まっても、

自家用ジェットで逃げ出せる人間は生き延びるが、

国境まで徒歩で歩かなければならない人間は殺される。





中央銀行が破綻し、国債が暴落するときも、

機動性の高い個体は海外の銀行に預けた外貨をおろし、

海外に買い整えておいた家に住み、

かねての知友と海外でビジネスを続けることができる。





そして、今、どの国でも支配層は

「機動性の高い個体群」によって占められている。





奇妙な話だが、

「国が滅びても困らない人間たち」が

国政の舵を任されているのである。





「操船に失敗したせいで船が沈むときにも

自分だけは上空に手配しておいたヘリコプターで

脱出できる船長」が船を操舵しているのに似ている。





マスメディアは「機動性が高い」という能力に

過剰なプラス価値を賦与する傾向にあるので、

機動性の多寡が国家内部の深刻な対立要因になっている

という事実そのものをメディアは決して主題化しない。





スタンドアロンで生き、機動性の高い「強い」個体群と、

多くの「扶養家族」を抱え、

先行きのことを心配しなければならない「弱い」個体群の

分離と対立、それが私たちの眼前で進行中の歴史的状況である。





現在の安倍自民党は

かつての55年体制のときの自民党と

(党名が同じだけで)もはや全くの別物である。





かつての自民党は「国民国家内部的」な政党であり、

手段の適否は措いて、

日本列島から出られない同胞たちを

「どうやって食べさせるか」

という政策課題に愚直に取り組んでいた。





「本当の意味での国民経済とは何であろう。





それは、この日本列島で生活している一億二千万人が、

どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。





この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から

逃れることはできない。





中には外国に脱出する者があっても、

それは例外的である。





全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。

その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、

所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、

これが国民経済である。」

(下村治、『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』、文春文庫)





いまの自民党議員たちの過半は

この国民経済定義にはもはや同意しないだろう。





「外国に脱出するもの」をもはや現政権は

「例外的」とは考えていないからである。





もう今、

「この四つの島から出られないほどに

機動性の低い弱い日本人」を扶養したり、

保護したりすることは

「日本列島でないところでも生きていける強い日本人」にとっては

もはや義務としては観念されていない。





むしろ、「弱い日本人」は「強い日本人」が

さらに自由かつ効率的に活動できるように

持てるものを差し出すべきだとされる。





改憲案はこの「弱い日本人」についての

「どうやって強者に奉仕するのか」を定めた命令である。





人権の尊重を求めず、

資源分配に口出しせず、

医療や教育の経費は自己負担し、

社会福祉には頼らず、

劣悪な雇用条件にも耐え、

上位者の頥使に従い、

一旦緩急あれば義勇公に報じることを厭わないような人間、

それが「弱い日本人」の

「強い日本人」に対する奉仕の構えである。





これが安倍自民党が改憲を通じて

日本国民に飲み込ませようとしている

「新しいルール」である。





それは「弱い同胞」を扶養・支援する

「無駄なコスト」を最少化し、

「すでに優位にあるもの」がより有利になるように

社会的資源を傾斜配分することを

確信犯的にめざしている。





この改憲案は「新しい」。





それはTPPによる貿易障壁の廃絶、

英語の準公用語化、解雇条件の緩和などの

一連の安倍自民党の政策と平仄が合っている。





一言で言えば、

改憲を「旗艦」とする自民党政策のねらいは

社会の「機動化」(mobilization)である。





改憲の目標は「強い日本人」たちの

そのつどの要請に従って

即時に自在に改変できるような

「可塑的で流動的な国家システム」の構築である。





国家システムを「機動化する」、「ゲル化する」、

「不定形化する」ことによって、

個別グローバル企業の

そのつどの利益追求に迅速に対応できる「国づくり」

(というよりはむしろ「国こわし」)をめざした政治運動は

たぶん政治史上はじめて出現したものである。





改憲草案のうち、

典型的に「国こわし」の志向が露出している箇所を

いくつか示しておきたい。





一つは九条「平和主義」と九条二項「国防軍」である。



現行憲法の平和主義を放棄して、

「したいときにいつでも戦争ができる国」に

衣替えすることをめざしていることは改憲派の悲願であった。





現行憲法下でも、

自衛力の保持と個別的自衛権の発動は

主権国家としては当然の権利であると

国民の大多数は考えている。





だが、改憲派は「それでは足りない」と言う。





アメリカの指揮で、

もっと頻繁に戦争に参加するチャンスに恵まれたい

と考えているからである。





国民を危険にさらし、国富を蕩尽し、

国際社会に有形無形の敵をつくり、

高い確率で国内でのテロリズムを招き寄せるような政策が

68年の平和と繁栄を基礎づけた平和憲法よりも

「望ましい」と判断する根拠はなにか。





「戦争ができる国」になれば、

国際社会からは深い敬意が示されるだろうと

予測しているようだが、

これまで日本が軍事的コミットメントをためらうことを不満に思い、

しばしば侮言を浴びせてきたのは「国際社会」ではなく、

端的にアメリカである。





九条二項の廃絶が「諸外国との友好関係を増進し、

世界の平和と繁栄に貢献する」ことだと考えているようだが、

私にはその理路がまったく理解できない。





もう一つは13条。

現行憲法の13条はこういう文言である。





「すべて国民は、個人として尊重される。

生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、

公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、

最大の尊重を必要とする。」



・自民党改憲案はこうだ。





「全て国民は、人として尊重される。

生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、

公益及び公の秩序に反しない限り、

立法その他の国政の上で、最大に尊重されなければならない。」





自民党案は「公共の福祉」というわかりにくい語を

「公益及び公の秩序」というわかりやすい語に置き換えた。





「公共の福祉」は基本的人権を制約することのできる

唯一の法的根拠であるから、

それが「何を」意味するのかは憲法学上の最大の問題であり、

現にいまだ一意的な定義を得ていない。





「公共の福祉」の語源は、

「民の安寧は最高の法たるべし

(salus populi suprema lex esto)」。





salus populiを英語はpublic welfareと訳し、

日本語は「公共の福祉」と訳した。





あらゆる法治国家において、

すべての法律・制度・政策の適否は

それが「民の安寧」に資するかどうか、

それを基準に判定されねばならない。





これは統治について

久しく万国において受け容れられてきた法理である。





自民党改憲案はこれを「公益及び公的秩序」に縮減した。





「公益及び公的秩序」はたしかに「民の安寧」の一部である。

だが、全部ではない。





統治者が晴れやかに

「公益及び公的秩序」は保たれたと宣している当の国で、

民の健康が損なわれ、民の安全が失われ、

民の生存が脅かされている例を

私たちは歴史上無数に挙げることができる。





だが、自民党案はあえて「民の安寧」を廃し、

「至高の法」の座を「公益及び公の秩序」という、

統治者がそのつどの自己の都合にあわせて

定義を変更できるものに譲り渡した。





先進国の民主主義国家において、

自由な市民たちが、強権によらず、自らの意志で、

基本的人権の制約の強化と

「民の安寧」の語義の矮小化に同意したことは

歴史に前例がない。





歴史上前例のないことをあまり気負いなくできるということは、

この改憲案の起草者たちが

「国家」にも「市民社会」にも

もはやほとんど興味を失っていることを意味している。





「民の健康や無事や安全」を配慮していたら、

行政制度のスリム化が進まない。





医療や教育や社会保障や環境保全に

貴重な国家資源を投じていたら、企業の収益が減殺する。





グローバル企業が公害規制の緩和や

教育の市場化や医療保険の空洞化や

雇用条件の切り下げや

第一次産業の再編を求めているなら、

仮にそれによって国民の一部が

一時的にその健康や安全や生存を

脅かされることがあるとしても、

それはもう自己責任で受け止めてもらうしかない。

彼らはそう考えている。





「(居住、移転及び職業選択等の自由等)何人も、

居住、移転及び職業選択の自由を有する」。

これが改憲案である。



・現行憲法はこうなっている。





「何人も、公共の福祉に反しない限り、

居住、移転及び職業選択の自由を有する。





「表現の自由」を定めた21条と比べると、

この改定の突出ぶりがうかがえる。





21条、現行憲法ではこうだ。

「集会、結社及び言論、

出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。」





改憲案はこれに条件を追加した。

「前項の規定に、かかわらず、

公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、

並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」





21条に限らず、

「公益及び公の秩序」を保全するためには

私権は制約されるべきだというのは

自民党改憲案の全体を貫流する基本原則である。





それがなぜか22条だけには適用されていない。





適用されていないどころか

もともとあった「公共の福祉の反しない限り」

という制約条件が解除されているのである。





起草委員たちはここで

「居住、移転及び職業選択の自由」については、

それが「公益及び公の秩序」

と違背するということがありえないと思ったからこそ、

この制約条件を「不要」と判断したのである。





つまり、

「国内外を転々とし、めまぐるしく職業を変えること」は

超法規的によいことだという予断を

起草委員たちは共有していたということである。





現行憲法に存在した「公共の福祉に反しない限り」を削除して、

私権を無制約にした箇所は改憲案22条だけである。





この何ということもない一条に

改憲案のイデオロギーははしなくも集約的に表現されている。





機動性の高い個体は、その自己利益追求行動において、

国民国家からいかなる制約も受けるべきではない。





これが自民党改憲案において突出している

イデオロギー的徴候である。





改憲案はあきらかに

戦争に巻き込まれるリスクを高めることをめざしている。





平和憲法下で日本は68年間、

九条二項のおかげで戦争にコミットすることを回避できていた。





それを廃するというのは、

「戦争をしたい」という明確な意思表示に他ならない。





現行憲法の下で、

世界史上例外的な平和と繁栄を享受してきた国が、

あえて改憲して、

アメリカにとって「使い勝手のいい」

軍事的属国になろうと願うさまを国際社会は

「狂気の沙汰」と見なすであろう。





改憲案は「他と同じような」、

「戦争を簡単に始められる国」になることをめざしている。





それは国民国家として生き延びることが

もはや彼らにとっての

最優先課題ではなくなっていることを意味している。





改憲派が改定の困難な「硬性憲法」を

法律と同じように簡単に改廃できる

「軟性憲法」に変更したいと願うのは、

言い換えれば、

憲法が「国のあるべきかたち」を

恒久的に定めること

それ自体が許しがたいと思っているからである。





「国のあるべきかたち」は

そのつどの統治者や市場の都合でどんどん変えればよい。

改憲派はそう考えている。



歴史上、さまざまな憲法案が起草されたはずだが、

「現実的であること」

(つまり、「いかなる理想も持たないこと」)を

国是に掲げようとする案はこれがはじめてだろう。



== 以上、抜粋引用終了 ==



原文も長く、引用も長くなりすぎたが、

色々と重要な指摘の多い、

内田先生の論考だ。



今日の日記の全てを読むのは

辛かった方も多いかもしれないので、

今後、幾度かこの論考を考えてみたい。







今日は新月だ。



さあ今日も、しっかりと前進します。

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     2013・5・10 Seiji Ohsaka


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