徒然日記

成田空港とミュンヘン新空港/逢坂誠二 #7565

【23年9月18日 その5868『逢坂誠二の徒然日記』 #7565】 昨日は、江差、砂原、福島、松前を回り、そのまま松前で宿泊しました。夜明け前の松前は、空全体に低い雲が広がり、弱い雨が降っています。気温は24度。日中は雨も上がる見込みです。予想最高気温は29度です。
1)成田空港とミュンヘン空港 日本がアジアのハブ空港の地位を占めることのできなかった本当の理由は、成田空港が予定した空港規模を実現できなかったことにあると、私は考えています。住民の反対を押し切って工事を進め、開港を急いだ結果、今も予定通りの空港規模にはなっていません。
反面、ミュンヘンの新空港は、住民への説明を丁寧に行いました。その結果、開港は随分と遅くなりましたが、今、フランクフルトに次ぐ、ドイツ第2のハブ空港になっています。目先の結果を急いだあまり、将来の大きな利益を失ったのが日本のケースに思われます。
【成田空港の経過】 1961年:空港建設の検討開始 1963年:航空審議会答申 1978年:空港開港
【成田空港の滑走路】 計画時:5本の滑走路  主滑走路4千m(2本)  副滑走路2.5千m(2本)  横風用滑走路3.6千m(1本)(合計5本)
開港時:主滑走路4千m(1本)
現在:  主滑走路4千m(1本)  副滑走路2.5千m(1本)
成田空港の建設開始から開港までの歴史は、日本人同士が殴り合うなど多数の死傷者を出し、当時10代だった私には、凄惨なものに見えました。開港予定日の1978年3月には、管制塔が反対派に占拠され計器などが破壊されました。そのシーンを今も良く覚えています。とにかく無理をして開港に漕ぎ着けたのが成田でした。
【ミュンヘン新空港の経過】 1960年:新空港建設の機運が高まる 1963年:新空港の立地調査委員会設置 1967年:建設予定地決定 1974年:連邦航空法による新空港計画承認 以後:反対運動、訴訟頻発 1980年:工事着手 1981年:工事差し止め 以後:反対派と話し合い継続、空港規模縮小 1985年:工事再開 1992年:開港
【ミュンヘン新空港の規模】 計画時:滑走路4本 (後に話し合いで2本に変更)
開港時:4千m(2本)
ミュンヘン新空港と成田空港は、同時期に計画されたものですが、全く異なる道のりを辿っています。ミュンヘンは社会的合意に20年以上の歳月を費やした結果、計画通りの空港を完成させました。一方、成田は反対運動の中で着工した結果、住民との激しいぶつかり合いがあり工事の見通しが全く立たない状況が長く続きました。
ミュンヘン新空港の建設が成功した要因として、建設工事よりも社会的合意を優先させたことにあると言われています。ミュンヘンでは「ナリタを繰り返すな」が教訓だったとも言われ、とにかく合意に時間をかけました。
その結果、開港は成田よりも14年も遅れましたが、計画通りの完全な形で開港しました。しかし成田は今も計画通りの規模になっていません。14年の差が、日本にとっては取り返すことのできない負の遺産になっています。目先の成果にこだわり過ぎて、将来が見えなかったとしか言いようがありません。
その時々の政治家の判断が、将来に与える影響は極めて大きいのです。私は町長時代からこのミュンヘンと成田のことをいつも念頭におきながら仕事をしています。
先を読まず、急いては事を仕損ずるのです。
さあ今日も、ブレずに曲げずに、確実に前進します。 ===2023.9.18===
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皆様のコメントを受け付けております。

  1. こんにちは。

    ミュンヘン空港と成田空港の成立過程の違い、規模の違いは、
    そのまま政治と社会の拙劣度というか、民主主義の定着度の違いが
    表れていますね。日本の場合、所詮、借り物の民主主義と揶揄し
    たくなる惨状は、今も続いています。
    どうしたものですかねぇ…。

    うらべ
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