徒然日記

こども食堂再考/逢坂誠二 7870回

【24年7月19日 その6173『逢坂誠二の徒然日記』7870回】
関東は梅雨が明けました。今年は梅雨の期間も函館滞在が多く、あまり梅雨の印象を強く受けずに梅雨明けとなりました。

今日、夏の土用の入りです。東京は予想最高気温が34度、曇り時々晴れの予報です。

1)こども食堂再考
こども食堂について言及したところ、「こども食堂が必要のない社会を作ることが必要」「こども食堂を応援するのは対処療法」などのご意見を頂きました。

貧困を解消すること、食事がとれない子ども無くすこと、こうしたことが必要なのは当然です。

しかし食事を満足にとることができない子どもがいるのも事実です。こども食堂の対応が対症療法だと指摘されようとも、困っている子どもたちに、少しでも満足な食事を提供することが必要です。

多くの方々は、既に十分認識されていることと思いますが、こども食堂は子どもへの食事提供だけを行なっているわけではありません。いわゆる「こども食堂」が始まって12年余りが経過します。この間、こども食堂は、色々な形へと変化しています。

私が考えるだけでも以下の役割があると考えています。

*貧困や虐待紛いの状態にある子どもに食事を提供し寄り添う場

*子どもや高齢者も含め、全ての世代にとっての居場所であり出番の場

*地域の多世代間の交流の場

これらの場は、昔の日本には、十分ではなかったかもしれませんが、多少なりとも備わっていたように思います。

私が育った地域では、日中、玄関に鍵をかける習慣はありませんでした。不在の時でも、日中ならば鍵をかけない家もあったほどです。

いつかの頃から、それぞれの家に郵便受けが設置され、玄関に鍵がかかり、ピンポン(呼び鈴)が設置されるようになりました。

日本中、全ての地域がそうだとは思いませんが、私の人生の中では、玄関に鍵がかかるようになる頃から社会の変容が始まったと感じています。

私の実家は、父と母が切り盛りする小さな食料品雑貨店でした。創業は私の生まれる1年前ですから、地域の老舗ではなく、新規参入、新参者でした。

私が生まれた1月後と聞いていますが、母が結核に感染し、長期の療養を余儀なくされました。

母の入院後、父は、茶の間の脇に檻のようなものを作り、私はそこで寝かされていたようです。寝かされていたというよりは、放置されていたのだと思います。もちろん虐待ではありませんが、働き手は父だけだったため、そうせざるを得なかったのでしょう。

1歳になる頃、私はその檻を破って脱出し、ストーブ脇に放置されていたカレー鍋に頭を突っ込み大火傷をしました。こんな状況を見るに見かねた近所のお婆さんが、父と十分確認することもなく、私を自宅に連れ帰って、面倒を見始めたのです。

その後、私は日中の多くの時間を、その家で過ごし、夜は店のある自宅に戻るという日常になったようです。60年以上前は、こんなことが、当たり前の雰囲気だったのかもしれません。

母は長期療養を経て、私が3歳になってから自宅に帰ってきました。その後も私は、近所の家で御飯を食べたり、泊まったりもしていました。

私は、近所の支えが無ければ、自宅を起点にして育つことはできなかったのだと思います。

振り返ってみると、当時は、私のように母がいるいないに関わらず、多くの子どもが色々な家に出入りしていました。少し綺麗に言いますと、社会全体で子育てを行い、それぞれの家や地域の皆さんに居場所と出番があったのです。60年近く前の、私の住んでいた地域には、こんな力が備わっていたのかもしれません。玄関への鍵が、それが失われ始めたきっかけかもしれません。

今のこども食堂は、それぞれの食堂や地域によって随分と内容が違っていますが、私が子どもの頃に体験したような役割の一端を担っているように思います。

子どもの貧困を解消すること、全ての子ども達が十分な食事がとれること、これは極めて大事なことです。一方、今のこども食堂は、これらの問題へ対処するためだけにあるのではなく、もっと多様な役割を担っていると私は考えています。

だからこそこども食堂への応援が必要なのです。

さあ今日も、ブレずに曲げずに、確実に前進します。
===2024.7.19===
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