徒然日記

5月11日 その3234『逢坂誠二の徒然日記』(4878)

夜明け前の雨の音で目が覚めた。

加えて湿度、室温が高く寝苦しさを感ずるほどだ。

大気の状態が不安定のようだ。

一方、今日の東京は夏日になる見込みだ。

1)ゆとり教育
馳文科大臣が、昨日、
「『ゆとり教育』との決別宣言を明確にしておきたい」と述べた。

文科省は指導要領の改訂ポイントなどを含む
「教育の強靱化に向けて」

と題した馳文科大臣の見解をホームページで公表。

この中に、

「学習内容の削減は行わない」、

「『ゆとり教育』か『詰め込み教育』かといった、
二項対立的な議論には戻らない」

などの内容を盛り込んでいる。

1998年の指導要領改訂で学習内容を大幅に減らし、
学力低下を招いたと批判され、
文科省は授業時間の増加などを進めてきている。

次期指導要領でさらに「脱ゆとり」を強調するねらいという。

この文科大臣と文科省の対応には注意が必要だ。

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基礎的な知識を確実に身に着けること


与えられた知識を鵜呑みにするのではなく、
多様な価値観を認識し、自分の頭で考えること

私は、教育ではこんなポイントが重要だと考えている。

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知識偏重教育では、
ただ闇雲に詰め込むだけで、
自分の頭で考えることが
おろそかになるとの指摘がある。

しかも答えのある課題にしか対応できないなどの指摘も多い。

こうした弊害を乗り越えるため
詰め込みからいわゆる「ゆとり教育」に移行した。

その結果、学力低下を招いたと指摘され、
現在脱ゆとり議論が広がっている。

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私は、知識も考える力もどちらも重要なものだと感ずる。

だから二項対立的な議論に戻らないという、
文科省の指摘は正論だと思う。

知識偏重教育は、
その到達度合いを測定しやすく、
その結果も比較的早く出る傾向がある。

一方、思考力偏重教育は、それと真逆で、
到達度合いが測定し難く、
その結果は容易には出ない傾向がある。

こうした傾向があるため、
いわゆる「ゆとり教育」を実施すれば、
学力が低下したと感じられる向きが多いのだと思う。

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私は、これまでの経験の中から、
単純に知識を覚え込むことよりも、

やはり考える力を、醸し出すように身に付けることが、
最終的な思考力や創造力が高まるよう印象を受けている。

憲法の学習を例にとれば次のようなイメージだ。


条文を逐条で暗記する


条文の意味を逐条で学習する


憲法とは何かという知識を得る


憲法とは何かということを
自分で考えながら最終的にその知識を得る

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これらの学習パターンの中で、
もっとも成果を具体的に確認しやすいのが暗記であり、
その逆が自分で考えながら知識を得ることだろう。

しかし単に条文を暗記しただけでは、
憲法の本質が分からず、

その条文の意味するところが
真に理解できたとは言い難いことが多い。

一方、憲法とは何か、さらに立憲主義とは何かを、
単なる知識としてではなく、
さまざまな角度から自分の言葉で語れる程度に
理解してから逐条の学習に入れば、
その各条項は単なる音声や言葉として覚えているという領域を超えて、
真にその条文の意味が理解できるようになるものと思う。

具体例としては、憲法第99条だ。

「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
 この憲法を尊重し擁護する義務を負う」(抄)

何の変哲もない、当然の言葉が羅列されている条文だ。

しかしこの条文の真の意味は、

憲法とは何かとか、
立憲主義に対する理解がなければ、
なかなか分からないものだと思う。

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この憲法のたとえは少し卑近すぎる例だが、
学習や教育がどうあるべきかを考える材料にはなると思う。

基礎的知識を得ることは必須だ。

しかし知識だけでは、様々な課題対応力は必ずしも身につかない。

逆に浅薄な知識が思考を阻害することもある。

最終的には、基本的な知識を身に付けつつ、
考える力をいかに身に付けるか、
それが大事なことなのだと思う。

その意味で、私はいわゆる「ゆとり教育」も大事だと思うし、
知識を身に付けることも大事だと思う。

ゆとり教育については、
その真の意味が理解されず誤解を受けたと思われる側面もあり、
ちょっと残念に思っている。

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そうそう最近は、こんなこともあった。

「夏の参院選を前にして、マスコミの政治に対すアンケートが多い。政治に望むことのトップは「経済の活性化」との結果が多い。大事なのは「単なる経済の活性化」ではなく、「どのような活性化なのか」だが、そこまで踏み込んだものはない。単に経済が活性化しても国民が幸せになるとは限らない。」

これは最近、私がツィートしたものだ。

これに対し、
「具体的にどうすべきかを言わない単なる批判が意味がない」
的な反論があるようだ。

確かにその反論には一理あるが、社会の全ての問題に対して、
一義的な解決手法があるわけではない。

仮に何らかの解決手法があるにしても、
それは単純簡便なものではなく、
複雑でなかなか理解しがたいものである場合も多い。

課題とそれに対する解決手法が
一対一で対応しているかのような発想では、
こうした現実を乗り越えることはできない。

様々な課題に対して、自らが懐深く考える姿勢、
それがまず必要なのだと思う。

しかし最近の政治の世界では、
そうした雰囲気がどんどん薄れている。


だから単純で分かり易い政策が増えている。

これは社会全体が、
自ら考える力を失ない、
他者からの答えを受け入れるだけの姿勢が
強まっているからではないかと思う。


こんなことでは社会の様々な課題に
場当たり的にしか対応できなくなってしまう。


これは社会の大きな危機だ。

さあ今日も、確実に前進します。 

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             2016.5.11

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