徒然日記

9月24日 その1876『逢坂誠二の徒然日記』




昨夜、最終便で都内入りした。



今朝の都内は、残暑も過ぎ去って、

気温は20度程度だ。



外に出るとスッキリ感がある。



青空に、秋らしい雲がプカプカ浮かんでいる。



しかし、日中は30度まで気温が上がると言う。



気温差が激しいので、注意が必要だ。







1)街宣

23日、函館市本町交差点で、

函館市議、道議の皆さんと、

大間原発工事再開容認に抗議するための

街宣活動を行った。



私も15分間、マイクを握ったが、

多くの皆さんから、手を振る等の御支援を頂き、

本当に有り難く思っている。



将来的に原子力発電を止めるために、

越えなければならない課題は多いが、

2030年代ゼロに向かって、

全力を上げねばならない。



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再生可能エネルギーをはじめとする、

新たなエネルギーによる電力の安定供給



電力システムの改善



立地自治体への対応



雇用の確保



電力会社への対応



資金マーケットへの安定



原子力技術への対応



世界の安全保障への対応



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こうした点が課題になると思われるが、

これらは大仕事であるのは事実だ。



だからこそ、政治が判断し、

その牽引役にならねばならない。







2)江差追分全国大会

23日、江差町で開催中の、

江差追分全国大会にお邪魔した。



道内外はもとより、

ハワイ、ブラジルからも

参加者を迎えている。



しかも今年は、

記念すべき50回の節目となる大会だ。



半世紀の節目ということもあり、

今回の一般の部の優勝者には、

内閣総理大臣表彰も贈られることになっている。



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この大会の凄いところは、

参加者のレベルが高いばかりではなく、

聴衆の皆さんの耳が非常に肥えていることだ。



うまい節回しが続くと、

歌の途中であっても

観客席から自然と拍手が湧きあがる。



しかもそのうまさの程度によって、

拍手の数、勢いが違うのだ。



さほどの唄いではない場合は、

途中での拍手はない。



つまり審査結果が出る前に、

耳の肥えた観客が

事前審査を行っているようなものであり、

大会出場者にとっては、厳しい舞台と言える。



しかし、この厳しさがあればこそ、

江差追分をここまでのレベルに高めたのだろう。



この厳しさを承知しつつ、

多くの皆さんが大会に出場しているのだと思う。



結果として、

聴衆と出場者が一体になって、

お互いのレベルを

高め合うことになっている。



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大会は、三日間に渡って開かれる。



審査委員に伺うと、

この間に江差追分を通算で500回も

聞くことになるという。



聴衆も繰り返し聞いて、聞いて、

耳を肥やすのだろう。



私は、時間の都合もあって、

16人の熱演にしか接することができなかったが、

それぞれに味があって、

同じ歌を繰り返し聞いても飽きることがない。



心底、凄い歌なんだと思う。



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今年の大会のテーマは、

感謝と創造だという。



これまでの50年への感謝、

そして1世紀を目指しての創造だと、

大会長の浜谷町長さんが説明してくれた。



良いテーマだ。



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いつも笑顔溢れる、浜谷町長さんだが、

昨日は、普段にも増して、破れるような笑顔だった。



それはきっと、

この50回大会開催に向け、

相当な思い入れを持って臨み、

万全の態勢で開催が進んでいることへの安堵感、

嬉しさの表れだったのだと思う。



今回の大会に向け、

多少なりともお手伝いすることのできたものとして、

私も本当に嬉しく思う。



多くの皆さんに、私も感謝したい。







3)専門家だけでは

国の原子力委員会の委員長代理を務める

鈴木達治郎氏が、23日の北海道新聞紙上の対談で

極めて注目すべき発言をしている。



「原子力政策は、

 国際政治や地方自治から

 世代間の倫理にまで及ぶ問題を抱えているので、

 原子力の専門家だけで意思決定するのは難しい。」



この発言は、極めて重要であり、

私はこれが現実だと思っている。



しかし、我が国では、

専門家の判断とか、

専門家による公正公平な議論などと、

常に原子力の専門家だけにスポットが当たる。



ところが原子力問題は、

いわゆる原子力技術の専門家だけでは

判断できないことなのだ。



このことを、

原子力委員会の委員長代理である、

鈴木氏が述べていることの意味を政府をはじめ、

多くの関係者は重要な指摘と受け止めるべきだろう。



また同じ記事の中で鈴木氏は、

カナダの原子力議論を紹介し、



原子力について

「科学技術的には問題ないが、

 社会科学的には問題がある

 という結論を出しています。」



と発言している。



そのうえで、



「私たち科学者の立場ではお手上げです。」



とも述べている。



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繰り返すが、

原子力の問題は、

いわゆる技術の専門家だけでは、

結論が出せない問題なのだということだ。



それにも関わらず、

政府もマスコミも、

常に専門家の厳格な判断などを尊重する

呪縛から離れることができないでいるのだ。



原子力は、純粋技術の問題で割り切れるほど、

洗練されていないということなのだが、

このことを指摘する方が少なすぎる。



私は、ドイツのメルケルさんが、

昨年、倫理的な側面から原子力ゼロを判断したことに注目していたが、

鈴木氏の発言は、メルケルさん的な雰囲気を帯びたものだ。



科学技術の専門家だけで、

原子力のあり方を判断できると

多くの人が受け止めていること、

ここに日本の原子力政策の

問題点の一つがあると、私は考えている。







さあ今日も、しっかりと前進します。

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   2012・9・24 Seiji Ohsaka


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