徒然日記

6月27日 その2500『逢坂誠二の徒然日記』





函館は空一面に雲が広がっているが、
雨が落ちる見込みは無さそうだ。

予想最高気温は24度程度だ。

1)国民不在
集団的自衛権、集団安全保障を認める方向で、
政府が7月1日か4日には、閣議決定をすると報じられている。

ついに戦後日本の平和主義が大きく変質する。

国民不在の中で、これほどの大転換をする。

信じられない。

しかも閣議決定したおよそ10日後に、
衆参で審議をするというが、順序が全く逆だ。

決める前に審議するのが当然だろう。

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それにしても政治がこれほど無力で、
政治がこれほど横暴なものだとは、
絶望感を覚えている。

2)ジンギスカンと政治
北大校内での、ジンギスカンが、
ある一定のルールのもとで解禁になったという。

昨年、ジンギスカンが禁止になったときも、
何と愚かなことになったものかと思ったが、
今回の解禁も同様な思いを抱いている。

校内でのジンギスカンは、キチンと節度をもって、
言わずもがなの不文律をわきまえて行えば、
禁止などと言う事態にならなかったはずだ。

逆に解禁に当たっては、
事細かにルールを決め、
大学に申し込んでジンギスカンを行うといが、
こんな管理された中で行わなければならないことも、
愚かとだなぜ気が付かないのか。

自由と勝手気ままな振る舞いの区別を付けられなかった結果、
北大の真の自由を失ってしまったツケは大きい。

(もちろん今回の解禁向け
 奔走した学生諸君の取り組みは大いに評価したい。)

====

同様に愚かに思うことがある。

大学祭などで、
政治的なシンポジウムや催し物を
禁止する学校が少なくないというのだ。

何とバカげたことだろうか。

私たちは、他者と共同の社会で暮らす限り、
政治と縁を切って暮らすことはできない。

政治に関心がないから、選挙に行かないとか、政治の問題の議論をしない等、
政治に関与していないことを標榜する方がいるが、
それは政治に関わらないということで、
政治にある程度の影響を与える意思表示になっているのだ。

自分は積極的に関わっていないつもりであっても、
結果として関わることになっているのだ。

政治のない世の中は、
少なくとも今のところ考えられないだろう。

だとすれば、子どもの頃から、この政治というものと、
どう付き会うのかを、それぞれの年齢に相応しい方法で考え、訓練する必要があ
る。

大学はなぜ学生を政治から遠ざけようとするのか。

政治の議論をすれば厄介だからか、
政治の議論をすれば何か偏った考えを持つからか、
その理由が、私には分からない。

若い時代こそ、社会の利害から距離を置く中で、
政治の姿を真正面から議論できる、貴重な時期なのではないか。

それなにのあえて無理をして政治から無菌の状態を作り出すのは、
私は社会の責任放棄だと思うし、若者の鍛錬の場を奪うことになってしまう。
(しかも大学は、若者だけの場ではない。)

生まれてから死ぬまでの間、
私たちの人生や社会を豊かにするために、
個々人が政治とどう関わるのか、
その作法をあらゆる方法で、丁寧に緩やかに浸透させる、
その工夫を続けることが社会の責務だ。

大学祭からの政治の締め出しは、社会の自殺行為なのではないか。

3)わけのわからない文章
以下、昨日の朝日新聞天声人語の抜粋だ。

==以下、抜粋引用==

これほどわけのわからない文章はない。

集団的自衛権をめぐる協議で示された原案である。

自公がそれぞれ都合よく説明できるよう
表現を仕組んだせいか、普通の人には意味不明。

わけがわからない点は大きく二つある。

第1。

原案は、他国に対する攻撃であっても、
そのせいで日本の存立が脅かされたりする
「明白な危険」がある場合は、
集団的自衛権を使って反撃していい、ということにしたいらしい

そんなに危ない状況なら
日本が攻撃されたのと同じではないかという疑問が浮かぶ。

現に原案は、日本による反撃について
「憲法上は、あくまでも我が国を防衛」する措置だと書いている。

これは集団的ではなく個別的自衛権の話ではないのか。

第2。

原案は、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとする
1972年の政府見解を引いて、
この理屈は今後も維持すると書いている。

歴代内閣の憲法解釈を変更するといっているのに、それを引き継ぐ。

つじつまがあわない。

==抜粋引用終了==

こんな無茶苦茶なことがまかり通るのか。

深い深い絶望の底にいる。

4)2500回
今日でこの日記も2500回となった。

1997年11月に始めた町長室日記が、
2005年8月までに1697回。

そして2005年9月から始めた徒然日記が2500回で、
通算4197回だ。

色々な紆余曲折はあるが、随分と長い時間が経過したものだと思う。

1997年の日記開始当初は、
世の中にはこんなメルマガ風のものもなく、
変なことを始めたと感じた方も多いだろう。

それが今では、多くの人がメルマガやブログで、
当たり前のように発信する時代になった。

隔世の感がある。

最近は、私の生活パターンが一定せず、
朝の時間に日記を書くのが厳しことも少なくないし、
以前のように新聞各紙に目を通してから
書き始めることもできない。

しかしながら、多くの皆さんの声援もあって、
何とかここまで続けることができた。

あまたのご支援に心から感謝している。

日記を書き続けることに、
色々と制約があるのは事実だが、
私自身の一日の折り目のある行動の目安として、
これからも継続したいと思う。

今日も朝の街宣からスタートだ。

さあ今日も、しっかりと前進します。

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        2014・6・27
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皆様のコメントを受け付けております。

  1. こんにちは。

    学長交代の時期に前後して禁止になり、学生の頑張りで限定的復活ですね。小役人的発想の学長と事務長なのでしょう。教授会、教職員組合が昔のように力を持っていれば、そもそも禁止などする前に自主管理になっていたはず。いずれにせよ何事も自由自律の北大の良いところを無くすことばかり熱心な当局です。結果は道内外からの異能有能な人材の枯渇につながるのですが…。市や狭窄症的性格の人は北大人としては不適だと思うが、そう言う人の存在は特殊なことではなく、社会に広く見られる。政治の世界にも多く見受けられる。安部政権は首相からしてその典型だ。それにしてもどうして人はこんにも愚かなのだろう。

    2)ジンギスカンと政治
    北大校内での、ジンギスカンが、
    ある一定のルールのもとで解禁になったという。

    昨年、ジンギスカンが禁止になったときも、
    何と愚かなことになったものかと思ったが、
    今回の解禁も同様な思いを抱いている。

    校内でのジンギスカンは、キチンと節度をもって、
    言わずもがなの不文律をわきまえて行えば、
    禁止などと言う事態にならなかったはずだ。

    逆に解禁に当たっては、
    事細かにルールを決め、
    大学に申し込んでジンギスカンを行うといが、
    こんな管理された中で行わなければならないことも、
    愚かとだなぜ気が付かないのか。

    自由と勝手気ままな振る舞いの区別を付けられなかった結果、
    北大の真の自由を失ってしまったツケは大きい。

    (もちろん今回の解禁向け
     奔走した学生諸君の取り組みは大いに評価したい。)

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