徒然日記

9月4日 その1502『逢坂誠二の徒然日記』



台風12号の豪雨と強風により、
各地に甚大な被害が発生しています。
そしてその状況が今朝も続いています。

被災された皆さんに、
心からお見舞いを申し上げます。

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今日は用務のため、
半年振りに札幌に来ました。

以前に来たのは、
雪がたくさんあったような記憶があるので、
半年以上前かもしれません。

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札幌市内は、木々の葉が揺れていますが、
それほど強い風ではありません。

小雨状態です。

1)組閣
野田内閣について、
マスコミでは色々と論評していますが、
同じ党の一員としては、
あまり意味のあることとも思われません。

この週末は、
マスコミ各社の世論調査結果が
出るかもしれません。

「どじょう」の話など、
国民の皆様には一定程度の好感を持って
新内閣のスタートを見て頂いていると感じます。

今後、行われる世論調査がどんな結果になるか、
私には分かりませんが、
万が一、支持率が高く出るようなことがあれば、
それは要注意です。

つい先ごろまで、
内閣支持率は散々であり、
政権への批判も相当なものでした。

この状況の中、
出来たばかりで、
何の仕事もしていない内閣の
支持率が高くなるなら、
それは不可思議と感ずるべきです。

それは内閣が、仕事で評価されたものではなく、
雰囲気など、得体のしれない漠とした理由で、
高支持率になっただけのことだと理解すべきです。

内閣に対する評価ではなく、
単なる期待値と捉えるのが適切かもしれません。

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その後、支持率が低下した場合も注意が必要です。

今の世論には、ある種の惰性があります。

ひとたび世論が一つの方向に向かい出せば、
必要以上に加速して、
その方向に収れんしがちなのです。

この惰性によって、
収れんした世論結果は、
内閣の仕事の真の姿を見て、
冷静に判断したものとは、
言い難い側面があると感じています。

毎週末ごとに、
マスコミ各社がこぞって行う世論調査結果は、
内閣に対する国民の評価として、
必ずしも適切なものではない場合が
少なくないと見るべきです。

しかし現実には、
必ずしも適切とは言い難い
この世論調査結果によって、
逆に社会全体が、
その結果の方向に
さらに誘導されているのも現実です。

特に評価よりも非難の方向に
社会が誘導されがちです。

だから世論調査結果は侮れません。

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組閣されたばかりの内閣への論評や
世論調査結果に一喜一憂することなく、
肝心なのは、
具体的な仕事を一刻も早く行うことです。
(ここまで書いた段階で新聞が届きました。
 案の定、支持率は高めのようです。)

2)国難
9月2日付毎日新聞夕刊の
辺見庸さんへのインビューをもとに起こした
特集記事には重要な視点が満載と感じました。

辺見さんの言葉と
記者の地の文などが混在していますが、
以下に、引用します。

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国難に対処することが最優先となり、
個人の行動や内心の自由が、
どんどん束縛されていないか。
『手に手を取り合って頑張ろう』という空気は、
それ自体は善意だとしても、
社会全体を変な方へと向かわせないか。

「言葉の死」は薄っぺらなスローガンから始まる。
言葉が死ねば、
自由も個人の尊厳もないがしろにされる。

誰もが『3・11』を分かったように思っているが、
世界史における位置づけや
『3・11』が暴いたものの深さ、大きさは、
とらえきれていないのではないか。

もっとカメラを後ろに引いて、
歴史的、文明論的な視点に立って、
この大災害を分析する必要があるのではないか。

技術革新を信じる進歩の概念、
人権、経済合理主義……
近現代の骨格をなしてきた思想は
終わったのではないか。
『3・11』は、そのメルクマール(指標)になりうる」

<科学、これこそ新興の貴族だ! 
 進歩だ。世界は前進する! 
 どうして後戻りしないんだ?>
  アルチュール・ランボー
   「地獄の季節」の一節。

前進に前進を続け、その果ての今、
僕らは崖っぷちに立っている。
がれきの光景を思い浮かべながら読むと、
近現代の終わりを強く感じます。

レオポルド・コールは
『物事が巨大化すれば、
 必ず事故が起こる』と予言していた。
少なくとも先進国においては、
コールの言う『過剰発展社会』を
作ってしまったと言えるのではないでしょうか。

近現代の流れには、
ある種の『慣性の法則』が働いているので、
恐らくもう飛び降りつつあるのでしょう。
原発や核兵器にも近い将来、
変化があるとは思えない。
9・11(米同時多発テロ)、
3・11、
最近ではノルウェー連続テロ事件……
過去にはあり得ないと考えられた事件が続いていますが、
今後も『過剰発展社会』を維持したまま、
規模にせよ発想にせよ、
またもインポシブル(あり得ない)な事件が起こるのでしょう。

我々自身の内面が決壊しつつある。
生きて行く足場を失ったという思いは
3・11の前からありました。
私は物書きだから、
内面をどう再構築すればいいか、
どのような内面をよりどころに生きればいいか。
そのことを考えなければならないし、
それを書こうと思います……。

== 以上、印象終了 ==

記事の最後で、記者が辺見さんに
「ならば、私たち一人一人が内面を再構築するすべは……」
と尋ねかけます。

すると辺見さんが、鋭い目で記者を制して、

「そんなご大層なことを言わなくたって、
 もうやっている人はやっている」と、

突き放すような言い方をしたようです。

記事終盤には、

「人間は皆、違う。
 それをひとくくりにする発想こそが愚劣であって、
 まず、それぞれが考え抜くしかないのだ−−」

とあります。

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 わたしの死者ひとりびとりの肺に

 ことなる それだけの歌をあてがえ

 死者の唇ひとつひとつに

 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ

 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを

これは、 記事の冒頭に引用されていた、
辺見さんの詩「死者に言葉をあてがえ」の一節です。

まるでナイフのように私の心をえぐります。

3)フクシマ論を読む

日本の実質経済成長率は、
90年代以降、20年間に渡って3%に至らず、
2008年度にはマイナス3.8%という
史上最低に水準に達した。
再配分型から
新自由主義型への転換を目指した果ての
迷走を経て崩壊した自民党政権の
後を引き継いだ民主党政権が
2010年に発表した新成長戦略には
「『元気な日本』復活のシナリオ」という副題が躍る。
経済成長によって「元気な日本」が蘇るのだとすれば、
経済成長なき日本は「病の日本」だというのか。(P22)

戦後、都市への労働者の流出、農業から工業へ、
あるいは重厚長大から軽薄短小への
産業構造の転換の度に地方が揺れてきた。
輝かしい戦後成長の歴史は、
その裏に、地方が時間の経過とともに
ますます翻弄されていく過程を
抱えていたのではないか。(P25)

== 以上、
序章 原子力ムラを考える前提
から引用 ==

9月1日から昨日まで、
富山の八尾で「おわら風の盆」が開かれたはずです。
今年は台風の影響で、
どんな風の盆だったかの気掛かりです。

一度、この祭に行ってみたいと思い始めて、
何年にもなりますが、未だに実現できません。

さあ、今日もしっかりと前進します。
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   2011・9・4 Seiji
Ohsaka

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